【吉田 博彦】日本の近代化と学校教育が果たした役割(2)

「学習指導要領」が生まれた背景

 終戦直後、国家財政が破綻していた時代に、人材育成こそが国家復興の基本として、義務教育を6年から9年に拡大したのは、当時の政府の英断である。後にこのことは「米百俵の精神」と称えられることになる。この「教育を基盤とした国づくり」という政策がこの国の1960年代からの高度経済成長を実現したことは間違いない。

 しかし、それを引き受けた学校現場は大変だった。これによって一気に膨らんだ就学児童・生徒を引き受けた学校現場の状況は、一クラス60名を超えるクラスは当たり前となり、二つの椅子の間に板を渡して数人が座ることで教室に子ども達を収容したり、それで収容しきれない地域では学校を午前部・午後部の2部制にしたりして対応せざるを得なかったのである。

 そうした学校教育を支えたのは「二度と戦争をしたくない」という反戦の決意と、民主主義国家建設に燃える教育現場の教員達の熱意だった。

 この当時、教員の給与水準は低く、朝の出勤前に新聞配達をしたり、勤務後に塾などのアルバイトをしたりするのは当たり前で、教員の給与だけで家族を養うのは大変なことだった。この頃は1950年代の朝鮮戦争特需に沸く好景気の時代で、当時はまだ数が少なかった高等教育卒人材の職業として教員は極めて条件が悪く、「教員=安月給」という構図は社会的に認知されるようになり、そのため「学校の先生=善意で働く特別な人」という日本人の教師像を形作ったのである。

 こうした教員たちの奮闘が日本社会における学校教育への信頼を不動のものとし、「学校教育神話」が生み出される素地となっている。最近、「働き方改革」で学校教員の過度な労働時間が問題になっているが、他の国には見られない部活の過重な役割の引き受けや、家庭訪問を含む生徒指導のための残業などは、この時代に作り上げられた「立派な教師像」が影響している。別の見方をすれば、社会からの教員に対する過度な期待が、「教員も労働者だ」と口にする教員は「どうしようもない先生」という批判や、日教組の悪影響という社会の反発を生む要因とつながっている。

 こうした終戦直後の学校教育再生期に最も大きな影響を与えたのが、1947年という戦後混乱期に成立した「6・3・3」の学制である。この「6・3・3・4」という小・中・高・大の学校制度は、米国の制度に倣ったもので、戦前の日本の「6・5・3・3」を基本とする学校制度との調整にはかなりの無理があった。

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吉田 博彦(よしだ ひろひこ)

教育支援協会 代表理事

1952年 大阪府枚方市生まれ。中高と神戸で育ち、1976年早稲田大学法学部卒業後、海外子女教育、インターネット教育事業などを行う民間教育会社の経営にあたる。

1997年、「教育支援協会」の設立に参画し、99年、教育分野で最初のNPOとして経済企画庁(当時)の認証を受け、全国組織のNPOの代表理事に就任。また、2003年に特定非営利活動法人小学校英語指導者認定協議会専務理事、2015年に特定非営利活動法人全国検定振興機構理事長に就任し、英語教育の改革や大学入試改革に取り組んでいる。

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【2018/6月】2020年学習指導要領の内容と課題(2)

 

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