【吉田 博彦】現代日本の教育と教育課程の変化(1)

1950年代から2000年までの学習指導要領の変遷

 先月号で述べたように、敗戦直後の1945年当時の国家財政は完全に破綻していたが、そうした中で9年制義務教育制度が導入されたのは、国の再建は教育の再建と意識されたためである。その時に定めた国の教育方針で、戦前の知識中心の注入主義的イデオロギー教育への深い反省に基づき、アメリカ進歩主義教育理論による「問題解決学習」の導入により、伝統的に基礎学力としてきた読・書・算の能力よりも問題解決能力こそが新しい時代の基礎学力となった。その中で社会科が新設され、自由研究が新教育のシンボルとなった。この教育方針は後に「経験主義」と言われる。

 そうした教育方針の下、1950年代までに義務教育就学率は99%を越え、教育基本法、学校教育法が次々と制定され、教育の再建は急ピッチで進められた。1952年には中央教育審議会〔中教審〕が設置され、国としての教育方針を議論する体制ができ上がり、昭和30年代(1956年~1965年)の高度経済成長が始まる中で、経済社会の発展に対応した教育改革をテーマとして、「教育の量的拡大等に対応した制度」の議論がスタートする。

 教育改革が言われるいつの時代もそうだが、この時に議論された中心のテーマが「学力低下問題」であった。戦後すぐに採用した「問題解決学習」に基づく「新しい基礎学力」も十分身に付いていないだけでなく、伝統的な「読・書・算」の能力も身に付いていないとの社会的批判が強まり、「読・書・算」を含む系統的な知識・技能・思考が学校で育てられるべき能力として強調されるようになった。「経験学習から系統学習へ」と言われる方針変更である。

 その当時まで、学習指導要領はあくまでも「手引き」という性格のもので、教育内容については学校に全ての裁量権を認めていた。しかし、1958年の小・中学校学習指導要領改訂案は法的拘束力を持つものとされ、国が教育内容について定めるということになり、ここから「教育権は国にあるのか、教員や親にあるのか」という不毛な対立が始まる。

 1959年に文部省が「わが国の教育水準」という初めての教育白書を作り、1961年に法的拘束力を持つ新しい学習指導要領が施行され、この学習指導要領の定着度を調べるために、この年から全国一斉学力テスト(中学2・3年全員対象)がスタートした。そうした一連の政策には「教育の国家統制だ」という批判が起こり、教育政策をめぐる対立的なムードが一気に高まっていった。

 昭和40年代(1966年~1975年)に入って、社会は高度経済成長の最盛期を迎え、「経済社会の発展に対応した濃密な教育が必要だ」という経済界の要望や、米国の教育内容の現代化の動きを受けて、中教審からは「日本でもかなり高度な知識内容を学習指導要領に盛り込むべきだ」という方針が出された。

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吉田 博彦(よしだ ひろひこ)

教育支援協会 代表理事

1952年 大阪府枚方市生まれ。中高と神戸で育ち、1976年早稲田大学法学部卒業後、海外子女教育、インターネット教育事業などを行う民間教育会社の経営にあたる。

1997年、「教育支援協会」の設立に参画し、99年、教育分野で最初のNPOとして経済企画庁(当時)の認証を受け、全国組織のNPOの代表理事に就任。また、2003年に特定非営利活動法人小学校英語指導者認定協議会専務理事、2015年に特定非営利活動法人全国検定振興機構理事長に就任し、英語教育の改革や大学入試改革に取り組んでいる。

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