【吉田 博彦】現代日本の教育と 教育課程の変化(2)

 この時期、学習指導要領が入学式・卒業式における日の丸掲揚・君が代斉唱を徹底するために使われたこともあって、学習指導要領の強制に対する批判が強くなった。そして、東京都中野区富士見中学でのいじめ自殺事件から始まる子どもの自殺が社会問題化し、学校や教育委員会に対する批判が激しくなり、そうした社会の教育への批判から教育改革国民会議が設置され、教育改革の推進が再確認されたのである。

 しかし、その議論は「教育を変えないといけない」という結論は同じでも、「だからもっと『ゆとり』を進めるべきだ」という路線と「だから『ゆとり』をやめて、もっと厳しくすべきだ」という路線が並存しており、まったく違ったこの2つの路線1990年代後半から教育改革の議論の中に入り込み、2000年代に起こる「ゆとり教育」への批判はそうした形でゆっくりと姿を表すようになっていく。

 ただ、この時期の「ゆとり教育」批判はまだ具体的な教育問題に対する批判ではなかった。しかし、1990年代のソ連の崩壊に始まる冷戦構造の崩壊や経済社会のグローバル化への対応から、国際社会において競争主義的な流れが強まる中で、バブル経済崩壊に始まる平成不況の社会的不安を背景に、「世界の状況は厳しくなっているのに、このままではダメではないか」という日本人の自信喪失が教育批判へ向かうことになる。

 それが、その後のいじめ、不登校、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発という社会状況を受けて、「こうしたものは子どもを甘やかした結果ではないか」ということから道徳教育の必要性が強調され、時代の流れに取り残されつつある教育システムへの見直しと合流して、それまでの教育の欠陥、つまり「ゆとり教育」が原因だという論調が強くなっていく。こうして「現在の教育の欠陥」=「ゆとり教育」という図式が生まれ、2000年に向けて、教育の問題は全て「ゆとり教育」が原因と理解される風潮が生まれたのである。

 そうした時代の変化の中で、中教審は2002年の学習指導要領の改訂議論を進めていた。その議論は国際化への対応が最重要テーマとなっており、国際的に一般化されている学校完全5日制や、1992年の学習指導要領の改訂に引き続く「個性を生かす教育」、「教科内容のさらなる削減」が基本方針となっていた。そして、生活科の新設をもう一歩進めた「総合的な学習の時間」の創設が決まり、それらの教育が目指す「学力」を総称して「生きる力の育成」という標語が掲げられることになる。

 こうして、2000年を迎える段階で1980年代からの教育方針を「ゆとり」という言葉で象徴するようになる。しかし、この「ゆとり」という言葉に「教育」をつなげた「ゆとり教育」という言葉は文部省が使ったものではない。それにもかかわらず、「総合的な学習の時間」の創設のため、教科教育の時間は削減され、特に算数・数学で教育内容の削減が進み、中学での英語の授業時間が減るとともに履修英単語が減ったことなどから、「これでは学力が低下する」というマスコミや多くの学者たちの「ゆとり教育」批判の大合唱が始まるのである。

 この大合唱は2002年の学習指導要領の改訂時まで続き、「ゆとり教育」は社会問題として取り上げられるようになる。ある学習塾は電車の吊り広告に「学校で台形の面積を教えなくなる」ということを取り上げ、「学力低下」の不安を煽り、テレビの討論番組では「ゆとり教育」が学力低下との関係で何度も取り上げられた。

 文部科学省はその批判に耐え切れず、新学習指導要領施行の2002年1月に「学びのすすめ」を通知し、教科学習の重要性や基礎基本の大切さを謳うことで「ゆとり」教育への批判をかわそうとしたが、それが逆に「腰が据わっていない」という批判を生むこととなり、学校教育の現場には「どっちなんだ」と不信感を募らせることとなってしまったのである。

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吉田 博彦(よしだ ひろひこ)

教育支援協会 代表理事

1952年 大阪府枚方市生まれ。中高と神戸で育ち、1976年早稲田大学法学部卒業後、海外子女教育、インターネット教育事業などを行う民間教育会社の経営にあたる。

1997年、「教育支援協会」の設立に参画し、99年、教育分野で最初のNPOとして経済企画庁(当時)の認証を受け、全国組織のNPOの代表理事に就任。また、2003年に特定非営利活動法人小学校英語指導者認定協議会専務理事、2015年に特定非営利活動法人全国検定振興機構理事長に就任し、英語教育の改革や大学入試改革に取り組んでいる。

yoshida

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